科学ニュース速報

「科学ニュース」をまとめています

カテゴリ: 歴史・考古学

1: 名無しさん 2020/03/29(日) 12:33:41.23 ID:Zbcoryal9
33枚の三角縁神獣鏡が出土した黒塚古墳。右側の建物が展示館=天理市で、大森顕浩撮影
no title

「銅出徐州」「師出洛陽」などの文字が記された三角縁神獣鏡のレプリカ=天理市で、大森顕浩撮影
no title

竪穴式石室の原寸大の復元模型。赤い床の中央に立てた状態にあるのが画文帯神獣鏡。周りに並べられているのが三角縁神獣鏡=天理市で、大森顕浩撮影
no title

天理市から桜井市にかけての山裾に、「卑弥呼の墓」説がある箸墓古墳(桜井市)などの巨大古墳を含む約40基のオオヤマト古墳群(3~4世紀)が広がる。その中の一つ、黒塚古墳(天理市)は、「卑弥呼の鏡」とも呼ばれる銅鏡・三角縁神獣鏡が大量出土したことで一躍脚光を浴びた。被葬者を守るように置かれており、当時の葬送儀礼での使い方も分かった貴重な発見だった。【大森顕浩】

古墳の小高い後円部に立つと、被葬者を納めた竪穴式石室の位置を示す陶板がある。遠方に箸墓古墳が見える。天理市教委の村下博美主査は「大和三山(香具山、畝傍山、耳成山)や二上山も望めます。見晴らしのいい場所を選んで造成したのでは」と想像する。

ヤマト政権初期の墓域とされるオオヤマト古墳群の中の一群を構成し、崇神天皇陵とされる行燈山(あんどんやま)古墳を含む柳本古墳群が、平野部に向けて延びる尾根上に造成されている。黒塚古墳はその先端部に当たる。

復元すると全長134メートル、後円部の直径74メートルの前方後円墳。もともと公園の一部だったが1997~98年の発掘調査で、竪穴式石室から三角縁神獣鏡33枚、画文帯神獣鏡1枚が手つかずの状態で出土した。村下主査は「地震で石室が一部崩れていたため、盗掘者が入れなかった」と話す。戦国時代になると墳丘に堀を巡らす山城になり、江戸時代には付近に置かれた柳本藩の陣屋の庭園となった。「おかげで現在まで残されたのです」

三角縁神獣鏡は、鏡の縁の断面が三角形で、古代中国の神仙思想をモチーフとする神や獣を図柄とする点から命名。これまでに全国で500枚以上確認されている。「景初三年」(239年)、「正始元年」(240年)など、魏志倭人伝で卑弥呼が中国・魏に朝貢し「銅鏡百枚」を受領した年号を記したものもあるため「卑弥呼の鏡」と呼ばれる。近畿を中心に出土しており、邪馬台国近畿説の柱の一つ。一方で国産説も唱えられ、論争となっている。近年は成分分析やレーザー計測による研究が進み、黒塚古墳の鏡も研究に利用されてきた。

古墳のそばの展示館には、出土した鏡の精巧なレプリカがずらりと並ぶ。三角縁神獣鏡の中には「銅出徐州」「師出洛陽」など、銅の産出地や作成者の出身地として中国の地名を記すものがあり注目されている。

鏡が出土した竪穴式石棺の原寸大の復元模型もある。長さ約8・3メートル、幅約0・9~1・3メートル、高さ約1・7メートル。両側から板石を持ち送りで積んで三角形の屋根状にして、背後に河原石を置く。石室下段はベンガラ(酸化鉄の顔料)で赤く塗られ、木棺(もっかん)(既に腐って残存しない)を置いた粘土の床も一面の赤。中央部には赤い水銀朱が多量に残っていた。

「画文帯神獣鏡の方が重要だったようです」という。画文帯神獣鏡は棺の中で被葬者の頭の近くに置いていた。一方、多数の三角縁神獣鏡は鉄製武器の遺物と共に、棺の外側で被葬者の上半身を中心にコの字に並べ、鏡面を内側に向けており、魔よけとする説もある。鏡はいずれも布でくるまれていた。

村下主査は「竪穴式石室を再現した展示は少ないのです。鏡の配置や役割、石室の構造、赤く塗ってどのように人を葬ったのかがよく分かります」とした上で「古墳の規模から、被葬者はヤマト政権の中心人物の側近クラスでしょう」と推測する。

オオヤマト古墳群の一帯では、ハイキングコースとしても知られる古道・山辺(やまのべ)の道が縫うように走る。村下主査は「古墳を訪れて、展示館でレプリカや模型を見た上で、周辺を散策してもらえれば」と話す。古墳の一つ一つに、赤い空間と鏡で葬送を続けてきた当時の人々の姿が思い浮かぶ。

毎日新聞 2020年3月23日
https://mainichi.jp/articles/20200323/ddl/k29/040/249000c?inb=ra

引用元:http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1585452821/

続きを読む

1: 名無しさん 2020/03/24(火) 13:26:07.04 ID:CAP_USER
南オーストラリアの奥地で、最も古いもので5億5000万年前のものとみられる化石が発見されました。化石には2mm~7mmという米粒のように小さな生物がひしめいており、化石を発掘した研究チームは「人類を含むほとんどの動物の祖先の化石としては世界最古かもしれない」と報告しています。
no title

Discovery of the oldest bilaterian from the Ediacaran of South Australia | PNAS
https://www.pnas.org/content/early/2020/03/17/2001045117

Fossil hunters find evidence of 555m-year-old human relative | Science | The Guardian
https://www.theguardian.com/science/2020/mar/23/fossil-ikaria-wariootia-bilateral-organism-human-relative

5億5000万年前の化石に閉じ込められていた生き物は、発見された地域に住む先住民の言葉にちなんで「Ikaria wariootia」という学名がつけられました。

そして、研究チームがIkaria wariootiaの体の構造を確認したところ、両端の大小が違うことが判明。研究チームの1人でスミソニアン国立自然史博物館研究員のスコット・エヴァンス氏は「これはほんのささいなことのように思えるかもしれませんが、Ikaria wariootiaが前後に区別される体を持っていたことを示しています」と、その重要性を強調しました。研究チームは「Ikaria wariootiaは確認されている中で地球最古の左右相称動物かもしれない」と論じています。
no title

多細胞動物の中で最も原始的な動物は海綿動物(カイメン)です。カイメンには組織や器官はなく、左右の区別がありません。そして、カイメンから一歩進化した真正後生動物は体のデザインの違いによって、クラゲやサンゴなどの刺胞動物、有櫛ゆうしつ動物、そして左右相称動物に分類されます。

左右相称動物は、受精後の胚が三つの胚葉で構成されており、はっきりと体の前後が区別され、左右対称となっているのが特徴。ヒトだけではなく、犬や鳥、虫など、地球上の多くの動物がこの左右相称動物に属します。つまり、今回発見された地球最古の左右相称動物は、人類を含む地球上の多くの動物の祖先といえるわけです。

これまでの研究で、エディアカラ紀(約6億2000万年前~約5億4200万年前)には左右相称動物が登場していたと考えられていましたが、説の根拠となる化石は生物の作った穴の痕跡しか見つかっておらず、エディアカラ紀の左右相称動物そのものの化石が見つかったのは今回が初めてだとのこと。

さらに研究チームは、生物が通った穴の痕跡を分析することで、Ikaria wariootiaが筋肉をミミズのように収縮させ、浅い海洋の堆積物の中を移動した可能性を示唆しています。以下の画像はIkaria wariootiaのイメージ図。

エヴァンス氏は「Ikaria wariootiaは巣穴から食物と酸素を求めて出てきたと考えられます。これはつまり、Ikaria wariootiaには周囲にあるものを感知する能力を獲得していたことを示しています」とコメントしています。

https://gigazine.net/news/20200324-oldest-bilaterian-ikaria-wariootia/

引用元:http://anago.2ch.sc/test/read.cgi/scienceplus/1585023967/

続きを読む

1: 名無しさん 2020/03/20(金) 23:10:44.64 ID:oGMm1wi+9
新型コロナウイルス禍が日本全体に大きな影響を及ぼし、世界各国でも感染者を急増させ、感染症の恐ろしさを示している。

医学の視点から、日本人の体質を踏まえた予防医療を考え続ける、医師で著述家の奥田昌子氏は著書『日本人の病気と食の歴史』にて、感染症に苦しめられる歴史はすでに縄文時代からあったことを示している。

※省略

■稲作とともに日本に侵入した感染症

大陸からもたらされたのは良いことばかりではありませんでした。それまで日本列島になかった病気が入ってきたのです。

その代表が結核で、縄文時代には存在せず、弥生時代に稲作とともに日本に侵入したとされています。

進行すると背骨に感染が広がって骨の変形が起きるため、発掘された骨を見て結核にかかっていたとわかることがあります。日本で確認されたなかでもっとも古いのは、弥生時代後期にあたる約2000年前の遺跡から出土した骨です。

最近の研究で、大陸の長江流域にある約5000年前の遺跡から、結核に感染したあとのある東アジア最古の骨が発見されました。

日本だけでなく朝鮮半島やベトナムでも、稲作が伝わった時期に結核が侵入したと考えられており、この遺跡の周辺から稲作と結核が一緒に広がっていった可能性が指摘されています。

続く古墳時代の遺跡からは同様の骨が多数見つかっており、弥生時代に伝わった結核が、この時期までに日本に根づいたと考えられます。

古墳時代にあたる3世紀から7世紀にかけて東アジアは気温が低く、雨の多い気候が続いたようです。このことも結核の蔓延に手を貸したかもしれません。

■アメリカ人の5倍!? 結核を発症しやすいと言われる日本人

日本人は同じように結核菌と接触しても、他の人種より結核を発症しやすい遺伝子を持つ人が多いと考えられています。

医学が進んだ現代でも、日本は結核の発症率がアメリカの5倍高く、毎年約1万8,000人があらたに結核と診断され、約1,900人が命を落としています。弥生時代のある日、日本に入ってきた結核菌が、今も私たちを脅かしているのです。

稲作の普及にともなう、もう一つの問題は、水田を作るのに適した湿地の周辺に人々が移住したことで起こりました。水田や湿地に住む小魚、貝、蚊などを介して寄生虫に感染しやすくなったのです。

※省略

■疫病の蔓延は「政治が間違っているから?」

712年に成立した『古事記』、720年成立の『日本書紀』のいずれにも、古墳時代には伝染病がたびたび流行して多くの人が亡くなったという記述があります。ただ、流行病を意味する疫病としか記載されておらず、具体的な病名はわかりません。

古墳時代には大陸から医師が来日し、天皇など身分の高い人の治療にあたっていました。しかし病気の原因も治療法も不明なため、素朴な薬草治療を行うのが精一杯だったようです。

代わりに重視されたのが加持祈祷でした。病気は神仏のたたりで、とくに全国レベルの疫病は政治が間違っているせいだと信じられ、たびたび大規模な祈祷が行われました。この考えかたは室町時代まで続きます。

※省略

■天然痘が引き起こした内乱

6世紀後半、聖徳太子の祖父にあたる欽明天皇の時代に、大陸から百済をへて日本に仏教が伝来しました。それからまもなく、瘡(かさ)、現代でいう天然痘の記述が『日本書紀』に登場します。

僧をはじめとする仏教関係者が多数来日するなかで、天然痘ウイルスが持ち込まれたと考えられます。

天然痘は急激な発熱や頭痛、関節痛で始まる感染症で、数日たつと発疹があらわれます。発疹は水ぶくれになって膿がたまり、やがて、かさぶたに変わることから「かさ」と呼ばれたのでしょう。死亡率が20~50パーセントにのぼる危険な病気で、回復しても発疹のあとが「あばた」として残りました。

『日本書紀』によると、瘡にかかった人が国中にあふれ、「身を焼かれ、打ち砕かれるようだ」と言い、泣きながら死んでいったというのですから、まさにこの世の地獄です。(続きはソース)

3/17(火) 11:51配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200317-00010000-php_s-bus_all
no title

引用元:http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/newsplus/1584713444/

続きを読む

↑このページのトップヘ